西ヶ原一里塚は、都内の一里塚の中でも元の位置に保存されている塚としてとっても貴重な文化財。
この西ヶ原一里塚は、大正時代に道路拡張工事で撤去されそうになりましたが、渋沢栄一などの活躍によって撤去を免れました。
場所
場所はこちら。
住所は東京都北区西ケ原2丁目4−2です。
西ヶ原一里塚が保存に至るまで
大正時代、道路拡張工事に伴い、西ヶ原一里塚を撤去する案が浮上。そのときに立ち上がったのが、滝野川町長の野木隆歓や地元の方々、そして渋沢栄一です。
西ヶ原一里塚の保存に活動していた渋沢のため、古河財閥の古河虎之助(旧古河庭園の持ち主)が積極的に寄付をします。多くの資金を得て、周辺の土地600坪を購入&東京府に寄付し、飛鳥山公園の附属地としての保存が決定しました。碑の除幕式には渋沢も参加し、演説をしたそうですよ。
1922年(大正11年)に国史跡に指定。これをもって、一里塚は後世に残されました。
西ヶ原一里塚を見てみよう
飛鳥山から七社神社に向かって歩くと、車道の間に木立が見えてきます。手前が旧道、奥が新道です。一里塚を避けて新しい道をつくるためにこのような形になりました。
七社神社の前にある、大きな榎の木が西ヶ原一里塚の目印です。
車道を挟んで反対側にも大きな榎の木が見えます。
こちらが西ヶ原一里塚。「西ヶ原一里塚」の後ろに大きな石が見えますが、これは「西ヶ原一里塚二本榎保存之碑」。この碑はもともと江戸城虎の門の石垣だった石を再利用したものなんですよ。
日光御成街道の一里塚と江戸城の石垣は、言わば江戸時代の名残。なんだか歴史のロマンを感じます。
西ヶ原一里塚って?
西ヶ原一里塚は、日本橋から日光まで続く日光御成道の二里目の一里塚。1604年頃に江戸幕府の指示により設置されました。
一里塚とは、旅人の目印となるよう大きな街道の一里(約3.9キロメートル)毎に設置された塚のこと。駕籠(かご)を利用して旅をする人には、この塚が駕籠(かご)代の目安になりました。
また、木陰で旅人が休憩できるよう、榎などの木が植えられたことが特徴。張り巡らされた木の根っこのおかげで塚の崩壊を防ぐ目的もありました。
一里目の塚は文京区本郷に、三里目の塚は東京都北区赤羽西にありました。現在はどちらも撤去され、往事の面影はありません。そういう点でも、西ヶ原一里塚がいかに貴重な歴史的資料かわかりますね。
最後に
青年期に江戸に滞在した渋沢。もしかしたら西ヶ原一里塚をたびたび目にしていたのかもしれません。
「江戸時代の遺物を守った資本主義の父」
一見相反するようですが、この一里塚を守ることで、晩年の渋沢は自身の若い頃のなつかしい思い出や江戸時代へのノスタルジックな思いを大切にしたかったのかも、なんて考えながら一里塚を後にしたのでした。