北区の神社・仏閣・歴史

明治・大正時代の北区(瀧野川町、王子町、岩淵町、尾久町)の人口増加の推移を調べてみた

昔の資料を漁っていたら、見つけました。北区の人口増加の推移一覧表。
明治初期には自然豊かな田園地帯だった王子一帯の歴史が垣間見えてとても興味深かったです。

北区の各地域(瀧野川町、王子町、岩淵町、尾久町)の人口推移

まず、人口統計に関するデータはこちら。
指数とは1898年(明治31年)を基準とし、その後くらい人口が増加したかを示したものです。

この記事では1898年、1920年および1924年の各地域の人口推移を抜粋した形で比較してみました。

瀧野川町の人口の推移

瀧野川八幡神社
1898年(明治31年) 5,758人(指数100)
1920年(大正9年) 42,789人(指数743)
1924年(大正13年) 74,071人(指数1,269)

瀧野川町の大正14年の人口82,000人を超え、東京市の郊外町村においては、澁谷町(現・渋谷区)、西巣鴨町(現・豊島区西巣鴨町)に次いで3番目に人口が多かったそうです。

ちなみに、当時の東京市は、今の千代田区・中央区・文京区あたりで、北区は東京市の郊外の位置づけだったようです。

王子町の人口の推移

飛鳥山
1898年(明治31年) 10,664人(指数100)
1920年(大正9年) 38,958人(指数365)
1924年(大正13年) 61,346人(指数575)

東北本線、王子電車、路線バスや市電の飛鳥山線が通ることで人口が増え、賑やかな街になったことが分かります。狐や狸が出没するような田園風景が広がっていた場所が近代工場地帯に変貌していったんですね。

ちなみに、東北本線が開業したのは1883年(明治16年7月28日)なんですよ。

岩淵町の人口の推移

いわぶちはし
1898年(明治31年) 6,039人(指数100)
1920年(大正9年) 11,597人(指数192)
1924年(大正13年) 20,710人(指数343)

赤羽駅、軍需工場が近郊にあったため、緩やかですが人口増加が見られます。

尾久町の人口の推移

尾久駅
1898年(明治31年) 1,770人(指数100)
1920年(大正9年) 5,231人(指数298)
1924年(大正13年) 30,724人(指数1736)

尾久町の当時の人口増加率は、東京市の郊外町村のうち、荏原町(現・品川区荏原)、杉並町(現・杉並区)に次いで3番目に多いものだったそうです。

1923年に北区のどの町も圧倒的に人口増加してる。

この記事では1898年、1920年および1924年を抜粋した形で表を作りましたが、文献には1898年から1924年まで年毎の人口が記載されています。そして今回ご紹介した北区の4つのどの町も1923年に圧倒的に人口が増加しています。

なんでだろう?と思いましたが、そうです。1923年は関東大震災があった年なんです。

1923年9月1日午前11:58に起こった関東大震災はマグニチュード7.9。その際、東京市内の64%の家屋が火災により焼失。北区近辺では火災が発生せず被害も少なかったことから、壊滅状態の都心部から流入した移住者がたくさん増えたそうです。

突然数千~数万の人が暮らす町が生まれたことで、生活のための商店がたち並びはじめたんでしょうね。
北区の歴史が日本の歴史とリンクして、とっても興味深いデータでした。

参考・引用文献:「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」東京市役所(昭和3年2月)

いわぶちはし
明治・大正時代の北区(瀧野川町、王子町、岩淵町、尾久町)の人口増加の推移を調べてみた昔の資料を漁っていたら、見つけました。北区の人口増加の推移一覧表。 明治初期には自然豊かな田園地帯だった王子一帯の歴史が垣間見えてとて...