1923年9月1日11時58分32秒、関東地方に大きな揺れ。関東大震災です。
混乱の中、飛鳥山に避難した人物の著書『五万や拾万の端金』(1925年)を発見。
著者である北沢重蔵は大変な苦労をして貿易会社を立ち上げた人物。会社の本店は本郷五丁目、分店は市電新宿終点、神楽坂、下谷入谷の電停前、浅草田原町、雷門、本所押上、形成電車前、錦糸堀市電終点等にあったそうです。
今回はその内容を一部、抜粋していきます。
※地名は全て当時のものですが、引用部分は現代の漢字表記に変更しています。
「駒込上富士前町の岩崎邸に避難して。市電駒込終点に当店の特約店があったから、そこへ依頼して、夕飯からその次の朝飯迄炊き出しをしてもらった。」
本郷五丁目の本店にいた重蔵は、大きな揺れが収まると、家族や従業員を連れて駒込上富士前町の岩崎邸に避難します。
駒込上富士前町の岩崎邸とは六義園のことのようです。
三日間この場所に避難していましたが、警官に飛鳥山に避難するよう言われます。
「根津から動坂方面へ火の手が移ったからここも危険だから早く飛鳥山方面に避難せよとの警官の注意に驚いて、早速飛鳥山へ避難した。」
重蔵は家族と共に飛鳥山に急いで避難します。
なお、各分店の従業員は全員無事。数日かかったものの、下町方面の各分店からいろいろな避難場所を経由して飛鳥山で重蔵たちに合流できたそう。
この時の飛鳥山は避難してきた人で足の踏み場もなかったようです。
「この飛鳥山はことごとく避難民で埋まり、ほとんど立錘(りっすい)の余地なき盛況、否惨況だ。」
飛鳥山に避難したのは、家族と従業員合わせて約30名。
重蔵達は天幕をはったので雨風はしのげるものの、食べるものがありません。親戚や取引先に米を送ってくれるよう電報を打ちつつ、田端や王子までどんなに値段が高くてもいいから、と従業員に食料を集めに行かせました(この時代、田端や王子はまだ田畑があったのかな?それとも商店に食料品を買いに行ったのでしょうか?)。
そして、九日目。ついに飛鳥山から移動します。
「九日の午後本店の応急修理完了と共に、全部飛鳥山から引き上げる」
被災後9日目に出入りの棟梁に本店の破損個所を修繕してもらい、従業員と家族全員で飛鳥山から引き上げることができたそうです。
かなり内容を省略しましたが、本を読むと震災の生々しい状況に息を吞みます。
いつも楽しく遊びに行っている飛鳥山にこんな歴史があるんだ、と改めて実感しました。
(参考:北沢重蔵 著『五万や拾万の端金』, 北沢洋行本店, 1925年)
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